九州アシュラムの思い出

九州アシュラム 委員長

大分恵みキリスト教会牧師  岡山 敦彦

自分のおぼろげな記憶をたどりながら、また古い過去の手帳をめくりながら、九州アシュラムの思い出を記します。

 私が初めて九州アシュラムに参加したのは、1986年、飯塚市にある福岡女学院の八木山研修所でした。交通の利便性から、福岡市と北九州市の中ほどにあるこの研修所で行われていました。私は1982年に北九州市小倉南区で開拓伝道を始め、1985年に会堂を建て上げることができました。開拓時代から続けて大変お世話になり、信仰の父として尊敬していました故山本繁夫先生に誘われて初めて九州アシュラムに参加しました。開拓伝道の困難な中を通ってきた私は、九州アシュラムでとても霊的な新鮮さを感じました。ファミリーでは、故鍋倉夏海夫人と同じでした。数人のグループでそれぞれの祈りの課題を分かち合うことができました。帰りには、北九州市から参加された方々が小倉中央教会に立ち寄ってくださり、新しくできた会堂で祈りを捧げてくださったことを忘れることができません。

また、翌年の九州アシュラムは、台風の接近の中で行いました。台風の最中にアシュラムを行いましたが、行きと帰りもみなさんが無事でしたので、主の守りを実感しました。

 1989年には、西南女学院の川内研修所で開いています。その時は助言者として四国から金田福一先生をお招きしました。この頃には、九州アシュラムの常連の参加者が多くおられました。故菅原寅雄兄はそのお一人で、開心の時にはいつも最初に前に出られて、アシュラムに参加できる恵みと感謝を証しされておられました。常連の参加者たちの多くは主の御許に召され、寂しい限りです。九州アシュラムには、「祈りのノート」が大切に保管されています。参加者の皆さんが徹夜の連鎖祈祷の折に書き記された貴重なノートです。私は最近の九州アシュラムでその祈りのノートを開きます。参加された方たちがどのような祈りの課題を持ってこられていたのか、また祈りの中ですべての事を主にお委ねして心平安に帰って行かれたことなど、懐かしく思い起こしています。私は、アシュラムの徹夜の連鎖祈祷こそ、最高の信仰の醍醐味だと思っています。夜ひとりで神様と向かい合って、過去を振り返り、現在を見つめ、将来を主に祈っていく。どれほど、多くの人たちがこの連鎖祈祷の中で、神様との深い交わりを体験されたことでしょうか。

 1995年9月、スタンレー ・ジョーンズ博士の娘婿のマシューズ博士をお迎えして、九州アシュラムを開くことができました。通訳は、前委員長の鍋倉勲先生が奉仕してくださいました。とても、思い出深いアシュラムでした。

 ある時期、仕方なく一般の宿泊施設を使ってアシュラムを開きましたが、どうしても霊的雰囲気を保つことができません。そのような時、カトリックの福岡黙想の家(宗像市)をお借りすることができるようになりました。施設を貸し切ることができ、それぞれ個室が与えられましたので、充実したアシュラムを持つことができるようになりました。そこでのアシュラムは今日まで続いています。その間、当時の日本クリスチャン・アシュラム連盟の理事長の海老沢宣道先生ご夫妻、大石嗣郎先生にも助言者として奉仕していただきました。

 私個人として強く思い出に残っているのは、2000年に、アシュラム発祥の地インドのサッタルの旅に参加できたことでした。インドのニューデリーからバスで2日間ほどかけて、ネパールから続く山々の麓のサッタルに着きました。二泊三日のアシュラムでしたが今もその時の記憶が鮮明に残っています。アメリカ、インドそして日本の合同のアシュラムでした。その時、マシューズ博士ご夫妻とも再会することができ、「聖ヨハネによる福音書」の著者タイタス先生ともお会いてきました。物静かな先生でしたが、静かな中にもキリストの香りを放っておられる先生とお会いできたのは、主の恵みでした。インドの山深い村の片隅からアシュラムが始まり、世界中にアシュラム運動が広がったことは、驚きであり、神の御業と言えましょう。

 九州アシュラムが今後も継続し、キリストとの出会いの場として継続できるように願っています。そして、何よりも後継者として若い人たちが育つようにと祈っています。  

最近の九州アシュラムとの関わり

 九州アシュラム 事務局長

 門司港キリスト教会牧師  鮫島 則雄

2009年度以降の九州アシュラムの近況を御報告致します。

私個人の九州アシュラムとの出会いは、2008年に北九州市の教会(門司港キリスト教会)に赴任し、同じ北九州市の教会で牧会されていた神学生時代の恩師・鍋倉勳先生から始まっています。

人生には様々な出会いがありますが、その出会いの機会を主にあってどのように受け止めていくかで、その後の人生も変わるのだなとつくづく思わされています。

私の人生が決定的に変えられたのは、もちろん救い主イエスさまとの出会いであることは当然です。ただそこに至るまで、天父の御許から見ておられた主は、様々な出会いを用意して今日まで導いてくださっています。

 キリスト教との出会いは、日本国際ギデオン協会寄贈の新約聖書を手にしたときからです。求道中の大切な出会いは、聖書の御教えを忠実に順守しておられるキリスト教書店の店主でした。そして郷里の薩摩川内市で開拓伝道中の教会に導かれ、その伝道所が教会組織する日にバプテスマに与かりました。入信決心に至るまで毎夜聞いていた日本FEBCのラジオ放送。入信決心即献身の祈りへと導かれ、入学を許されたのが九州バプテスト神学校でした。その神学校の教室があったのが福岡市の鳥飼バプテスト教会で、その教会で牧会しながらいくつもの神学校で教鞭をとっておられた鍋倉先生でした。鍋倉先生のもとで教会事務として働きながら夜間の授業に出席し、卒業後は、熊本の山奥にある人吉キリスト教会に赴任を許されました。約14年お仕えした後、次に導かれたのが現在の門司港キリスト教会です。

青春時代(20歳から37歳まで)のすべてを放蕩生活に明け暮れていた私が主の憐みによって献身し、そして牧師の道へと導かれて今20年目に入ろうとしています。その放蕩息子に一番欠けていたものが「聖なる世界」だということをご存じの主が、こちらに赴任した時、恩師鍋倉先生との再会を通して九州アシュラムへと導いてくださいました。静寂な黙想の家で、今までにない新しい出会いが与えらました。私が初めて参加したアシュラムでの助言者は熊本の愛泉教会祈祷院の院主・日高範嘉先生でした。ヤベツの祈りを通して、神様が期待されていることは、単純でひたむきな祈りであることを示され、祈りの姿勢を正されました。

その時、事務局長として奉仕されていた岡山敦彦先生が教団の人事異動で北九州市を離れることになるので、あなたに次期事務局の働きをお願いしたいと委員長の鍋倉先生と岡山先生から依頼があり、恩師からの依頼は命令ですからお引き受けした次第です。 

アシュラムの働きがどういうものか全く分からないまま引き受けたのですが、幸いにも岡山先生が転任された教会が同じ九州内の大分市でしたので、私の足りない働きに適切な助言をいただきながらの奉仕を続けています。

私が事務局として奉仕するようになってから、助言者をしてくださった先生方は、第44回が斎藤剛毅先生、第45回と46回は以前九州アシュラムの委員長をなさった今村幸文先生、第47回は前事務局長の岡山敦彦先生にお願いしました。そして47回目のアシュラムが終わった時点で、九州アシュラム委員長が鍋倉勳先生から岡山敦彦先生に引き継がれました。第48回のアシュラム助言者は、前委員長の鍋倉勳先生にお願いし、続けて会場として定着しているカトリックの福岡・黙想の家で大いに恵まれています。

 私が参加させてもらってからの一番の喜びは、このアシュラムに参加された方々の中から献身者が起こされていることです。今村幸文先生が助言者としてご奉仕された時、先生が以前牧会されていた教会から献身された牧師(塩屋優子先生)のご長男が、このアシュラムで献身を決意されました。この辺りの事情は、塩屋優子牧師からこの記念誌で証しがなされていますのでご一読ください。また佐世保から参加された姉妹も、学校の教職からさらなる献身へと促され、現在米国の神学校に留学中です。

『神の然り』…主は私たちに様々な出会いを用意されます。その出会いの中でどのように取捨選択するべきかで、その人の将来は大きく変化します。私はこれからもアシュラムでの出会いを心から喜び、大切にしたいと願っています。 

アシュラムとの出会い

九州アシュラム 元委員長 末永 昶(ひさし)師 

 私が初めてアシュラムと出会ったのは、1971年にスタンレー・ジョーンズ先生が来日された時のことです。西南学院山の家で11月22日~24日までアシュラムの集会が開かれました。先生は既に当時87歳のご高齢でしたが、一日に数回諸集会でのご奉仕をなさることもあるとのことで、まだとてもお元気な様子でした。このアシュラムで先生が何を語られたかは、メッセージの内容はよく記憶していませんが、この時がきっかけとなり、私はアシュラムの集会に参加するようになりました。スタンレー・ジョーンズ先生による山の家での集会は、これまでに何度か開催されており、九州アシュラムの原点はここにあるかと思います。

 その後、榎本安郎先生がまだご健在であられたころ、山の家で数回アシュラムのご奉仕をしてくださいました。その中で、わたしの記憶に残っている唯一のみことばは、開会礼拝の時のあったか、聖書研究の時であったか、定かではありませんが、マルコ福音書7章31節~37節から語れた「耳が聞こえず、口のきけない人が」が癒されたお話でした。このみことばが私の心の奥深く届きました。以下は、その時のメッセージの感想です。

 先生は「エッファタ」、「開けよ」と力強く語られました。私たちが語ることができない。神のみ名をほめたたえ、心から感謝し、賛美し、祈り、福音を語ることができない。その原因はどこにあるのか。それは私たちが神のことばを聞いていないからである。口を開いて語り、祈る者となるためには、まず神のことば聞かねばならない、聞くことが大切であることを強調されました。そして、イエスは「耳が聞こえず舌の回らない人」が連れてこられた時、耳を開いて聞こえるようにしてくださるために、その人を群衆の中から連れ出し、一対一となられ、父なる神にとりなして祈り、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって「エッファタ」「開けよ」と言われ、いやしてくださったことを語られました。榎本先生には、この翌年の1976年9月13日~15日に山の家で、開催予定のアシュラにもご奉仕いただくことになっていました。お迎えできることを喜び、楽しみに祈っていたのですが、このアシュラムには、前日の12日に長良川の堤防が決壊するほどの猛烈な台風17号が日本列島を襲い、新幹線も空の便もストップし、とてもお出でになれない状況になりました。それでも、なんとかお出でいただけないかと期待しながら、ご都合を伺いましたところ、先生は集まっている人たちでやってくださいとのことで、この時のアシュラムは特別な奉仕者のいない集会となってしまいました。しかし、私たちはかねがねアシュラムとは、特別な指導者によって導かれる集会ではなく、みことばと祈りによってそれぞれが直接主の導きを受ける集会であることを学んでいましたから、特に混乱することなく、プログラムに従ってそれぞれのファミリーに分かれ、静聴の時、恵みの時と主ご自身の導きを受け、みことばと祈りによって受けた恵みを分かち合い、感謝の内に充満の時を向えることができたように思います。

 初めてアシュラムに参加して40年を過ぎました。アシュラムで培われたみことばと祈りの生活は今も私の日々の歩みの生きがいとなってます。

息子の献身

戸畑高峰教会牧師     塩屋 優子

私の息子は、1990年に生まれで、1歳までは夫の牧会する宮崎の教会で、その後は私たち夫婦が始めた開拓伝道の地であり、私の郷里でもある北九州市で育ちました。中学1年生の時に教会の特別伝道集会で決心し、洗礼を受けました。

中学3年の高校受験を控えた三者面談で私の発した言葉がきっかけで、彼の反抗期が始まりました。高校3年間は、ほとんど口を聞いてもらえませんでした。彼が変えられたのは、大学入学の決まった春休みに行ったキリスト者学生会(KGK)の春季学校です。春期学校に行く寸前まで渋っていましたが、「約束したでしょ」と半ば強引に行かせました。しかし、春期学校から帰って来た時、彼は喜びに溢れていました。クリスチャンの先輩方に励まされ、愛の溢れる交わりで変えられたのです。大学2年の終わりに「進路はどうするの?」と聞くと、献身への思いは持ちながらも、「御言葉が与えられていないから就職する」と答えていました

彼は大学3年生の進路を祈っている時期に、アシュラムに参加しました。その年は、私と家族にとって人生最大の試練の出来事に遭った年でした。私の父はクリスチャンで、北九州市で鉄工所を経営していましたが、その会社で試用期間に雇っていた者から、突然命を奪われるという事件が起こりました。鍋倉先生や鮫島先生たち出席された方々が、温かく話を聞いてくださったりしていく中で、心も安らいで行きました。

再び、大学3年の秋に「進路はどうするの?」と聞くと、「献身する」と答えたのです。「いつ決心したの?」と聞くと「アシュラムで」との返答が返ってきました。彼は、祖父を殺した殺人者を許せない思いで苦しんでいた時に、助言者である今村幸文先生から「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:26)の御言葉をいただいて、委ねることができ、献身の決意に至りまし現在ウェスレアン・ホーリネス神学院に在学中です。「イエスは主なり」。