連盟の活動について
日本アシュラム」第19号より抜粋(1977.4)
総務 大石 嗣郎師
日本クリスチャン・アシュラム連盟とは何か。その必要性はどこにあるのか。本連盟についてのご理解とご協力を頂くために少々述べようと思います。
アシュラムとは日本では故スタンレー・ジョーンズ博士が昭和30年に初めて開催された退修会のことです。
その後も先生は来日される度に各地で開かれたが、最後の第10回全国伝道の時に博士が8地区にアシュラム委員会を組織されました。そして帰米に際し、高瀬、海老沢、大石の3名に按手の祈りを授け、「ぜひ私が来ない時も各地でアシュラムを守るよう。これらの委員会の全国的な連絡をとり。相互に助け合い、アシュラムの火を継承してほしい」と言い残されました。
これを受けた3名は博士との約東を守り各地の委員会に呼びかけ、翌47年5月に東京で15名参集の下に連盟の結成を見たのです。つまり各地の委員会が先に生まれ、連盟は連絡協調のために後から生れたものです。各地の教会にアシュラム精神を滲透させることが目的で、連盟の強化は目的ではなく、むしろ連盟が不要になるほど、各個教会でアシュラムが守られる時の来ることを祈っている次第です。
本連盟に協調するアシュラムは指導者を特定個人に限らず、全理事の協力によるので「日本」と言い、各種修養団体でもアシュラムと称するものがあるので「イエスは主である」を告白する点から「クリスチャン・アシュラム」と明記することにしています。
北米の連盟はもとより、インド、欧州南米など世界の連盟と祈りを共にして、「世界アシュラム」の開催にも協調し、第1回エルサレム、第2回インドと開かれましたが、第3回をわが日本で閧くようにとの要望が来ています。
また第1回日本アシュラムの誓約(18号第1面参照)が成されてから今年は22年目ですが、近く25年を迎えることであり、大いに祈りを篤くして、新しい展開を望んで進みたいと願っています。
国際アシュラム連盟との関わり
横山 義孝師
E.スタンレー・ジョン―ズはインドで始まったアシュラム運動が海外で実施されるようになったことから、米国に本部をおいた国際アシュラムを組織し、下記の如く世界の各地で国際アシュラムを実施するようになりました。この国際アシュラムにはその都度、日本からも数人の参加者があり、これの報告は日本アシュラム誌の各号に掲載されています。
[第1回] エルサレム
1972年6月21~30日 325名参加
E.スタンレー・ジョーンズ師開会説教
日本から中路嶋雄師、鈴木氏の2名参加
[第2回] インド・ニューデリー
1974年10月1~4日
(日本から代表を出す予定)
[第3回] 御殿場・東山荘
1978年10月4~6日 250名参加
日本から220名参加
[第4回] インド・サトタル
1980年10月9~12日 名参加
日本から7名参加
[第5回] フィンランド
1982年7月15~19日 名参加
日本から20名参加
[第6回] 米国ジョージア州合同メソジスト教会
1986年1月22~29日 274名参加
日本から8名
[第7回] ソウル
1988年5月13~21日 名参加
日本から7名参加
[第8回] カナダ・ハリフアックス
1992年6月13~17日 350名参加
日本から10名参加
[第9回] スエーデン・ヤコビン
1994年7月6~11日
日本から 4名参加
[第10回] インド・サトタル
2000年11月16~21日
日本から大石嗣郎師、木部安来師 西海静雄師、岡山敦彦師、土山牧羔師、
横山義孝師、飯島庸江姉、若林節子姉、8名参加
国際アシュラムに出席して
池の上キリスト教会 飯島庸江姉
私がホーリネス教団池の上キリスト教会で洗礼の恵みに与かったのは、1985年のクリスマスでした。同じ年の秋、奥多摩での関東アシュラムに初めて参加させていただいております。翌年早々に初めて国際アシュラムに参加しました。江古田教会の牧師で日本クリスチャン・アシュラムの委員長の海老沢宣道師、夫人、江古田教会員のご婦人2名、碑文谷教会牧師で副委員長の大石嗣郎師、淵江淳一師夫人の淵江千代子師、それに広島に投下された原爆についてお働きのため在米中の谷本清師と山崎製パン在米社員の9名でした。
開催の場所はアメリカニュージャージー州のセントサイモンズアイランドという所で、日本から行った6人はアトランタ空港から小型飛行機で現地入りしました。そこは大きな施設で、大勢の人が集っていました。3日程にわたって集会が開かれましたが、淵江夫人がお2人の婦人のために小型ラジオを使って通訳の労を取っておられました。集会の終了に当たって会場の前方に据えられたマイクのところまで行って感想、感謝の言葉を述べる機会がありましたが、淵江夫人は東南アジアのミッションスクールを出られて、英語が堪能でいらしたので出て行って「あまり恵みが豊かすぎて消化不良をおこしました」と云われたのでびっくりもし、感心もしました。癒しの時も持たれ、私も出て行って優しそうな女性の方にお願いしましたところ、「一つの器官の痛みは全身に及ぶ」と言われて祈ってくださいました。
また各国の行進というのがありましたが、私は主催者から頼まれて韓国の旗を持って行進に加わりました。
日本への帰り道では周辺の都市の観光旅行を楽しみました。アメリカ東部が寒波に襲われて大雪が降りました。私たちはワシントンDCのナショナルカシードラルという大きな聖堂を見学に行きましたが、3,4人の制服を着た兵士が出ていくのを見かけましたが、振り返って見るとあるステンドグラスの前に大きな花が供えてありました。それは月から持ち帰った石をはめ込んだ記念のステンドグラスでした。後で見たテレビのニュースによりますと、寒さのためもあって、スペースシャトルが墜落して乗組員が犠牲になったとのことでした。ハワイの日系の人も居たので私たちも特に祈りを捧げました。
ウエスレー神学校や国連の塀に書かれた「剣を鋤に、槍を刈り取り鎌に」(their swords into plowshares and their spears into pruning hooks)という聖句も見に行きました。私は聖書を繰って、「剣を鋤に、槍を鎌に」(イザヤ2:4)というところを見つけ出し、その事を海老沢師に尋ねると、そのところから何遍もメッセージをしているから間違いない、ただ「私たちはもう戦争のことを学ばない」という所が抜けているので、本当の平和が来ないと言われました。
また、キリスト教関係の書店に行きましたが、そこでスタンレー・ジョーンズ著“How to Pray”が1ドルで売っていたので買い求め、これを翻訳したいと言うと、海老沢師も大石師もそれは良いと賛成してくださいました。帰って翻訳に取り掛かりましたが、「あれには困った。アメリカの本部から許可を取ってあるのに、なかなか出来上がらない」と言われてしまい、結局白川鄭二師のご援助でやっと日の目を見ましたが、10年の載月が経っていました。「この本は厳しくてなかなかのものだ」と言う方もおられました。
その後、カナダの東岸の島で行われた国際アシュラムやスエーデンのエンシェピング島で行われたのにも参加しました。関西の教会の土山牧羔師が遅れて来られお証をしました。キリスト教のある学説に言及して、それは抜身の包丁を風呂敷に包んで懐に入れるようなもので、必ず破れてしまうと言われました。
その後スタンレー師のルーツを訪ねる旅、アパルームの編集者会議にも連れて行っていただきました。
最後に私が参加したのはインド、ヒマラヤ山麓にあるサトタルで行われた国際アシュラムでした。そこはクリスチャン・アシュラムの中心とも言える場所でした。日本から大石師、横山師、九州の岡山師、東京から木部師、西海師、北陸から若林姉、後から合流なさった横山師、それに私の8名です。アメリカから40人ほどの参加者があり、この一行にマシュウズ師ご一家もご一緒でした。ニューデリーで合流しバスで行き、途中で一泊しました。ニューデリーで合流する筈だった土山師はバスが出た後、ホテルに着いたとか、終日タクシーを飛ばし夜遅く私たちに追い付きました。崖から突き落されて荷物を取られても仕方がないところ、伊丹の空港から自宅へ帰るくらいのタクシー代で無事着いたと言われたのには驚きました。途中トイレ休憩がほとんどないのには大変困った方もいたようです。王様の避暑地のナニタルいうところを通り、途中で婚礼の一行を見かけたり、ある寺院の前で新婚の初々しい花婿花嫁の写真を撮らせてもらったり、大蛇を首に懸けられた人もあったり、マーケットが広場の中にある町でショールなどを買ったりし、遂に終点に着くと少し休憩し、ジープに分乗してでこぼこ道を行きました。途中、道端にインド式に蓮の花の台の上に据えられたスタンレー師のお墓もありました。
サトタルというのは7つの湖という意味だそうですが、湖に囲まれた小高い所に8角形の礼拝場、食堂、集会所、宿泊施設等があり、コテッジも点在していました。若林さんと私もそのひとつに泊めていただきました。スタンレー師がよく戸外の集会を開いたという湖畔のちょっとした広場にも行きました。「神の漁り人」の映画に出てくる場所です。アシュラムは礼拝堂で行われましたが、そこは板敷で講壇は平たい大きな腰かけになっていました。インドの人たちの話好き、議論好きが印象的で、夜遅くなっても続きました。
早朝、若林さんに起こされて、杉の木々の合間から見えるオリオン座を見ることができました。また朝早くから、湯を沸かしバケツに並々と配られましたが、使い道に困りもったいない感じがしました。朝、顔ばかりでなく、身体を拭く為と思われます。スタンレー師の習慣だったのかと思いました。横山師はスタンレー師が日本で開かれたアシュラムに初めて参加した時、「聖霊の御声を聞けせてください」というニードを述べ、その祈りが聞かれたことのお証しをされました。特に印象が深かったのは、大石師、土山師を除く一行が坂道を下って湖に散策に出かけ、ボートに乗ったりしましたが、帰りは来た道を戻らず反対側の道から帰ろうということになり出発した。でも、行けども行けども見覚えのある場所に戻れず、心配して居た時、来るとき乗せていただいたYMCAのジープが通りかかり、「こんなところで何をしている」と言いながら連れ戻してもらいました。道が遠かったのに驚き、ジープが来てくれて本当に助かったと神に感謝しました。
集会の内容はいろいろあって、またインドの人の英語は訛りもありご報告できないのですが、食事はビュッフェ式でカレーが何種類も並んでいて美味しかったです。スタンレー師の着ていたインド式の白い服や休まれたベッドもありました。長閑な良い場所で番人をしているタイタス師のご自宅でお茶をご馳走になったりもしました。集会が終わって帰り道にはジョ-ンズ師が入院して最後を迎えられた病院にも寄りました。また師が伝道を始められたラクナウという町でノーマンイズイル(No man is ill-誰も病気でない?)いう現代式の病院を見学し、列車でニューデリーに戻りました。アメリカの一行は有名な観光地タジマハールに行きましたが、私たちはガンジーが凶弾に倒れた場所、王様が使っていた大きなモスク等市内観光をし、綿製品などの買い物をして帰途に就きました。小高いサトタルに水を引きあげる設備が大変だったとか、全体の維持にも費用が掛かるうえ観光地にするため売ってもらいたいという話もあるというお話も聞きました。
先ごろマシューズ師はお亡くなりになり、ユーニス夫人もご高齢なので、お二人の長女のアン・ マシュ-ズさんが跡を継ぎ、日本クリスチャン・アシュラム60周年記念アシュラムにも証し者として来日されるそうです。国際アシュラムにも何回か出席させていただき、書物の翻訳も少しさせていただきましたが、今振り返って見ますと、“Fisherman of God”が一番興味深く熱意をもってやらせていただけたと懐かしく思っています。先輩の方々始め皆さんに大変お世話になりました。この機会にお礼を申し述べさせていただきます。アシュラムの上に更なる祝福が豊かにありますようお祈り申し上げます。
日本クリスチャン・アシュラム連盟
書記 安藤 脩師
スタンレー・アシュラムの開始
日本国内のアシュラムは1953年に発足しました。これはE.スタンレー・ジョ―ンズ師が1949年から2年毎に日本伝道に来日以来第3回目の時でした。1953~1961年の4回はE.スタンレー自身が中心となって、天城山荘、東山荘等を会場としてのアシュラムでした。
各地区主体のアシュラム開始
1962年以降はこの祈りの運動が静寂を好む日本人に適していると、受け入れられスタンレー伝道の各支部毎に独自に実施されるようになりました。即ち北海道→函館、東北→仙台、関東→東京、中部→名古屋、関西→大阪、中国→広島、四国→松山、九州→北九州等ですが、その後、それぞれの地区で個別に下記のように各地区アシュラムで呼ばれるようになったのです。即ち道南アシュラム、東北アシュラム、岩手地区アシュラム、関東アシュラム(その中に城北アシュラム、城南アシュラム、城西アシュラム、代官山一日アシュラム、江古田一日退修会、深谷アシュラム、九段教会ミニアシュラム)、新潟アシュラム、栃尾アシュラム、中部アシュラム、関西アシュラム、四国アシュラム、中国アシュラム、九州アシュラム、そして教職アシュラム、アシュラム・セミナーなどでした。
時代の変遷と共にこれらの内、現在残って開催されているのは、函館栄光ミニアシュラム仙台アシュラム、関東アシュラム、関西アシュラム、四国アシュラム、九州アシュラムなどです。おもな開催状況は下記写真によってご覧ください。また、これらの各地区の詳細は地区のアシュラム報告を参照していただきます。
日本クリスチャン・アシュラム連盟の設立
E.スタンレー・ジョ―ンズ師は1971年には第10回日本縦断伝道を実施しました。同年12月アメリカにおいて脳卒中で倒れ、1972年病からやや立ち直り、車椅子で活動を再開。同年エルサレムにおいて第1回の国際アシュラムを実施して、インドにかえりましたが、1973年1月25日インドにおいて遂に召されたのでした。
E.スタンレー師は日本における最後の奉仕を終わるにあたり、日本におけるアシュラムの働きを継続させる為に日本人による超教派のアシュラム委員会を組織することを提唱されました。国際アシュラムの組織の一環としての日本の委員会に今後の働きを託したいと提案されたことを受けて日本の委員たちは以下の様な組織図を確認すると共に理事会を結成することになった。
1972年5月9~10両日、東京において日本クリスチャン・アシュラム連盟の結成式が挙行されました。
全国理事会
第2回全国理事会
1972.9.18~19日、於伊豆ロッジ成毛
開会礼拝、霊交の時、聖書の時、世界大会報告、ファミリーアワー—各地区報告
(理事長)高瀬恒徳(副理事長)中路嶋雄
(総務)海老沢宣道(書記)大石嗣郎・横山義孝(会計)鈴木留蔵・萱沼孝文
(常任)山根可弌・池本金三郎
(理事)白川鄭二・村上束・横山義孝・原田定男・中路嶋雄・谷本清・宇都宮充・山本繁夫
連盟は指示せず、推進を助言するだけ、教会の悩みや欠けを補い仕えるものであることを確認
第3回理事会
1973.3 於東京・婦人矯風会
第4回全国理事会
1974.2.1~2 於目黒みやこ荘
創始者E.スタンレー・ジョ―ンズ博士記念三大事業の計画と募金活動(①世界アシュラム・センターをガリラヤ湖畔に建設する。②アシュラム未開国への活動費③発祥地サトタルセンターの強化とクララ・スエイン病院の増設)
第5回全国理事会
1976.3.8~9 於東京・目黒みやこ荘
理事長・海老沢宣道就任
「祈祷生活」誌を「日本アシュラム」と改称
第6回全国理事会
1977.9.12 於東京目黒みやこ荘
第7回全国理事会
1978.3.6 於東京目黒みやこ荘
第3回国際アシュラムを1978.10日本で開催を決定
第13回全国理事会
1992.6.10~11 於山崎製パン箱根山荘
連盟役員会が1992.9.9に於碑文谷教会で行われた。
第15回全国理事会
1994.4.6~7 於山崎製パン箱根山荘
出席者・海老沢宣道、大石嗣郎、土山牧羔、淵江淳一、石神 勇、古河 治、河野修、山本繁夫、飯島庸江、白川鄭二
アシュラム開始40周年記念大会にJ.マシューズを迎えて開催を決定
第16回アシュラム理事会
1997.6.2~3 於山崎製パン箱根山荘
全国理事会議事録抄
第17回全国理事会
1998.4.29 於国際文化会館
第18回全国理事会
2010.1.14 於国際文化会館
「静聴の時」のあと、諸報告事項承認、日本連盟の規約検討
第3条(目的)1.「本連盟は創始者E.スタンレー・ジョ―ンズの精神により、『イエスは主である』と仰ぎ聖書に聴き、祈りに徹し、弟子の生活を実践することを目的とする」を確認
第19回全国理事会
2011.6.16~17 於池の上キリスト教会
アシュラム・セミナー、静聴の時・協議・各地区報告
規約第2条・連盟の事務所に関して・同意の上「池の上キリスト教会を事務所として定めた」を確認
人事・理事長:横山義孝、副理事長・清水 潔、書記・木部安来、理事・有馬歳弘、安藤脩(以上常任)
地区代表理事・鍋倉勲(九州)、小島十二(関西)横山義孝(関東兼務)、推薦理事・岡山敦彦、鮫島則雄(以上九州)、辻中昭一(関西)、唐渡 弘(四国、佐々木雄次(函館)、島隆三(東北)、任期は本年より2年
第20回全国理事会
2013.6.20~21 於池の上教会アシュラム・セミナー、静聴の時のあと、
議事・「日本クリスチャン・アシュラム連盟60年記念誌編集発刊の件」を協議し、
日本におけるアシュラムの包括把握とこの運動の積極的推進のため、満場一致で承認した。具体的作業と内容の検討等を討議
①助言者(指導陣)「福音の時」の担当講師、祈りのグループの座長、讃美リーダー、立証者等を決定
②連鎖祈祷委員 祈祷室の用意、期間中の全時間を一時間毎に指名記入欄を造り全員に記入してもらう。夕食後、朝食後に記入者を確認